明治から大正にかけて活躍した歌人、与謝野晶子をして『武陵桃源の島』と言わしめた豊かな水、美しい空、繚乱たる花々。
初島の豊かで美しい自然が、数々の伝説と物語をつむぎ上げてきました。
三宅島の壬生家に伝わる、通称「三宅記」別名「三島大明神縁起」という書があります。この書によれば、薬師如来の申し子として天竺に生まれた三島明神は無実の罪に問われて追放され、唐・高麗を経て日本にやってきます。
そして富士山の神に出会い一緒に島を作り始め、伊豆に十の島を創生しました。その中で一番最初に作った島が初島です。
伊豆諸島創世を伝える『三宅記』
第一の島をば初の島と名付け給う。 第二の島をば島々の中程に焼き出し、それに神達集り給いて詮議有りし島なれば神集島と名付け給えり。 第三の島をば大なる故大島(伊豆大島)と名付け、 第四の島は塩の泡を集めてわかせ給えば 島の色白き故に新島と名付け、 第五の島は家三つ双びたるに似たりとて三宅島と名付け、 第六の島は明神の御倉とおっしゃって御蔵島と名付け、 第七の島ははるかの沖に有りとて沖の島(八丈島)と名付け、 第八の島は小島(八丈小島)と名付け、 第九の島はウの花に似たりとてヲウゴ島(青ヶ島)、 第十の島をば十島(利島)と名付け給う。
人皇第五代孝昭帝の御代、初木姫は日向から東国順憮に向かう途中、伊豆沖で遭難、一人この小島に漂着しました。
姫は毎日磯辺をさまよって、対岸に人がいるのだろうかと、焚き火をたいて合図をしたところ伊豆山の伊豆山彦という一男神がこれにこたえました。
姫はこれに力を得て、萩を組んで筏にし、草で織った帆を巻いて伊豆山小波戸崎(今の伊豆山港)に渡りました。
初木姫と伊豆山彦との出会い…その場所が伊豆山の逢初橋と言われています。
伊豆山に渡った初木姫は、伊豆山の中腹に登り、木の中に棲む日精・月精という二人の子供をみつけ、乳母としてこの二人の子供を育てました。
その子供が成長し、初木姫はこの二人を夫婦とし、やがてその子孫は繁栄しました。
昔の伊豆山権現の祖先は、この二人だと言われています。
(初木神社碑文より)
初木神社の神殿の下には古代の祈りの場所磐倉(イワクラ)の遺跡が眠っています。
悲しい歌に残されている物語です。
大昔、初島は住む人が六軒しかない淋しい島でした。
十七才の美しい乙女が伊豆山のお祭りで、右近という若者を好きになりました。
「百夜通えば結婚する」という約束でお初は海上三里たらいに乗って通いましたが、九十九日目の夜、お初に横恋慕した男が目印の火を消してしまいました。お初は一晩中海にさまよい波にのまれて死んでしまいました。
右近はお初の弔いに諸国巡礼の旅に、火を消した男は七日七夜苦しんで遂に死んでしまいました。(お初の松碑文より)
『その昔「磯内膳」と云う小田原の侍が居た。彼は精神病でしかも酒乱の癖があった為、この初島に流され長い間療養していたという。
在る時、彼が散歩をしていると通りかかった農夫「越後孫兵衛」の運ぶ肥料の露が袴に掛かってしまった。すると、それに腹を立てた内膳は孫兵衛に果し合いを迫った。困った孫兵衛は家に戻って考えた末、覚悟を決めて大きな斧を研ぎ始めた。そんな孫兵衛の様子を見た内膳は彼の勇気に驚き「お主の心はわかった。」と許したという。そんな内膳はその後もしばしば島民を困らせた為、御上より切腹を命じられ「小田原の見えるところに埋めてくれ」と言い残しこの世を去った。』(碑文より)
港の傍の森の中にひっそりと佇む竜神宮には海の中から現れた剣が祀られており、大漁祈願の神として島民の信仰を集めています。
昔不漁が続いたとき、海の中から剣が現れて、それ以来、島には大漁の日々が続きました。
今でも毎年4月3日には竜神宮のお祭りが行われ、海で取れた鯛、ブリなどを供えて大漁を祈願します。
島の人たちは毎年この日には漁を休み、大漁鉢巻を巻いて桜の下で酒を酌み交わす慣わしです。
滿山の椿と水仙とを目にした實感は
猶武陵桃源の趣がありました
明治から大正にかけて活躍した歌人、与謝野晶子をして『武陵桃源の島』と言わしめた豊かな水、美しい空、繚乱たる花々。
初島の豊かで美しい自然が、数々の伝説と物語をつむぎ上げてきました。
与謝野晶子
明治11年12月7日~昭和17年5月29日
大阪府堺市出身の歌人で夫は与謝野鉄幹。
既存の枠にとらわれない自由で情熱的な作風で知られ、女性の自我や性愛をおおらかに詠った歌集『乱れ髪』(明治34年)、旅順攻防戦に出征していた弟を嘆いて作られた歌集『君死にたまうことなかれ』(明治37年)が有名。
昨夜からの突然な思ひ立出で、三里先きの海上にある初島を觀に行かうと決めたのです。忙しい中から僅かの暇を無理やりに作つて東京を離れたのさへ氣紛れであるのに、行く人の稀な島へ特に船を雇つて出掛けると云ふのは、我れながら醉興なことだと思ひました。私達の境遇では到底人並に呑氣な生活は出來ないのですから、ときどき突發的にかう云ふ醉興をして百忙の中の一間を偸(ぬす)み、呑氣らしさを摸(ま)ねることに由つて、纔に境遇の壓迫からほんの束の間だけ生命の解放を計るのです。
~中略~
温暖な氣候と日光との中に、滿山の椿と水仙とを目にした實感は猶武陵桃源の趣がありました。午後二時半に島を辭しようとすると、區長さんが島人を代表して澤山の蠑螺を返禮に贈つて下さいました。歸りの船は午後五時前に伊豆山の相模屋の裏手の磯へ着きました。
歸つてから、良人は初島の歌を澤山に作りました。
林芙美子
明治36年12月31日~昭和26年6月28日
山口県下関生まれの小説家。
代表作に映画化もされた『放浪記』『浮雲』がある。自らの貧しい生い立ちや流浪の実体験に基づいた作風。
花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりきの言葉で有名。
小説『うず潮』は1964年にNHK朝の連続テレビ小説でドラマ化された。
路地の細い道を抜けるとすぐ海に出る。昏(くら)い海の向こうに、ちらちらと熱海の不夜城の灯がたなびいて、明滅していた。
~中略~
島は森閑と無人島のような静寂。昏い。
向こうの、きらめく燈火の下には、それぞれの人の世があり、悲劇や喜劇が演じられているのであろう……。
来の宮の沖合いには、いか釣り船の明るい灯が二つゆるく流れていた。水の面は黒檀に染まり月光が照りかえっている。
~中略~
熱海の灯が、光の霧を噴いている。千代子は息を殺してじいっと夜の海を見つめた。私はいったい何を
恐れていたのだろうか……月の光を溶かしてうず潮は昏く流れている。速度も見えぬながら、只、海鳴
りの音を立てて、はてもなく、うず潮は流れているのだ……。
実朝が二所詣(※)で箱根をこえて伊豆山に来た際に、十国峠から海を見ると初島に波がよっているのに感動してこの短歌を作りました。十国峠と初島港に碑文が残っています。
※二所詣とは将軍をはじめとする幕府の有力者が箱根権現と伊豆山権現の二カ所に正式に参詣する行事のこと。頼朝は源氏と平氏の戦いのときに、伊豆山権現に妻の政子や乳母をかくまってもらいました。
初島について